木曽義仲がはるか上洛の機をうかがっていた頃、愛妾葵の御前としばしば入浴していたので「葵の湯」とよばれていました。 その後、北条義政が浴室を建て、北条湯ともよばれていましたが、後にその溢れ出る湯の量の多さから「大湯」と改められました。